一区切り

こんばんは
本日は書き留めておきたい事があるのでこの記事を書きます
本日行われた神奈川県選手権5960点で4位でした

神奈川県陸協の配慮で表彰式までしてもらいました

12年間陸上を思い切り優先してやって来れたのは

親の支えや、神奈川の先生たちの、支えがあったからです

僕という人間の半分を作ってきた陸上競技に改めて感謝をしたいです
小学生の頃に出た100mは14秒1でした

将来は100mでオリンピックに出たいと始めた陸上競技でしたが

中学1年生の時13秒1でしか走れずに、他の種目の方が向いているかもしれないと四種競技を始めました

切り替えは早い方でしたね。
四種競技の1番最初は忘れもしない

ハードル0点

もともと110mHは18秒5くらいでしたが

転んでしまって0点でした

走高跳は1m35で、砲丸投の記録は覚えてないですが、400mは59秒8くらいでした

センスがないとは思ったのですが、ここで多分火がついたのか一層やる気になって

中学時代は110mHは15秒6

走高跳は174

砲丸投は11mくらい

400mは55秒8

になりました

神奈川県で5番になれて

高校では八種競技でインターハイに出たいなと思い始めましたが

高校1年生の県総体は後に先輩となる松下祐樹さんが県記録を更新し、そのままインターハイ優勝したのを見て、目標を優勝に切り替えました

4410点くらいから始まった八種競技でしたが

得意種目の走高跳が1m90まで伸び

高校から追加された

走幅跳で6m64

やり投げで52m44

と得意種目を増やせたこともあり

高校2年で5000点を越えることができました
この勢いで高校記録の更新

何で目標を立てて真面目に取り組んだせいもあり

次の年は怪我が続いたりしました

気晴らしにやってみた三段跳が14mを超えて

2種目でインターハイ優勝

なんて思ったこともありました

3年目の県総体は

やり投げにも出て3冠する予定が

八種競技で2位

三段跳で3位

やり投げは20位くらいでした
南関東大会では

怪我からも復帰して

万全だったのにもかかわらず

八種競技では5154点までしか伸ばせず

三段跳も14mくらいで終わってしまいました

いつまでも忘れないのは3位のゼッケンをつけて1500を走り4位になった八種競技です

インターハイにはプラスで拾われるという偶然に助けられ

4700点くらいで気づいたら終わってました

順天堂大学を受験しようと思ったのは

混成で日本一になるには

日本一がいるところに行かないとと思ったのが大きいです

やっぱり僕の中での一番は松下さんでしたので

結構先見性があったと思います。笑
大学1年で入った瞬間に両膝の内側側副靱帯を痛めて

復帰できたのが夏

2年目こそ6508点という大層な記録を出せましたが

夏に肘の靭帯を切って、投擲がまともにできるまで一年

3年目にやっと、関東インカレに出れてボロボロ

4年目こそと意気込んだけれど、選考会でまた1500mで逆転されて代表を逃し

全日本に向けた試合は記録なしと

まーさんざんな4年間でしたが

仲間に支えられたのが本当に大きかったです

今思うと昔から1500mで逆転される側でした
そんな自分を克服できなかったのも
自分の一つの実力です

まだまだやれることはある

もう少しで噛み合いそうなのに

という試合を繰り返して

大学院1年目で4年ぶりにベストを更新しました

結局全日本インカレは、出れなかったけど

得たものはたくさんあった6年間でした
だけど、これからは少し、時間の使い方を変えていかなければならないと思っています

この先の人生は残りのその先の人生のために。

 

 

まだまだ自分はできる

そう思えるうちは走り続けます!!

少し休憩したり第一に考えるのを少し後回しにしたりするだけなので

必ず、走り続けるし、トレーニングし続けるし、試合にだって出る

ので

これからもどうかよろしくお願いします

選手として思いっきりやれた12年間には本当に感謝です

ありがとうございました

 

これからの村山凌一もよろしくお願いします。

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